ポーランドが親日な理由

1917年、ロシア帝国が革命で崩壊すると、 各地で激しい内戦が繰り広げられた。その混乱に乗じたポーランド 1919年11月に念願の独立を勝ち取ったが、 両国はそのまま交戦状態に突入していく。 このときシベリアには、 祖国に帰りたくても帰れない10数万人ものポーランド人が取り残されていた。 せめて親を失った孤児だけでも、シベリアから脱出させなければならなかった。 救出委員会ではアメリカのポーランド系移民に保護を求める為、 欧米諸国に孤児たちの輸送と援助を要請したのである。 しかし混乱と緊張が続く国際情勢の中、各国の反応は冷淡であった。 万策がつき途方に暮れるアンナに委員会の一人が声をかけた。 「日本はどうだろう」それを聞いて別の一人も声を上げた。 「そういえば、ソ連赤軍に破れたチューマ司令官の義勇軍の為に船を出し、 新しく生まれ変わったポーランドへ帰れるようにしてくれたのも日本だった」 アンナは深くうなづいた。アンナは直ちに日本に向かい、 外務省にシベリア孤児の惨状を訴えた。1920年6月のことである。
外務省は直ちに日本赤十字社に孤児の救出を依頼。 それはアンナが外務省を訪れてからわずか17日後という 驚くべき即断であった。独立して間もないポーランドはまだ混乱の最中にあり、 日本との正式な外交関係さえ結ばれていない。そんな状況で、 手間も費用も人手もかかる救済事業がこんな短期間で実行に移されたことは、 当時のどんな外交事例と比べても極めて異例なことだった。  
そして7月下旬、56人の孤児を乗せた第一陣がウラジオストックから 敦賀経由で東京に着き、渋谷の慈全団体の宿舎に収容された。 これを手始めに、翌1921年7月までの1年間で5回にわたり、 1歳から16歳までの375人の孤児が同じように日本に運ばれたのである。 シベリア孤児達が日本にやってきた経緯を知った日本国民は、 物心両面で温かい関心を寄せた。寄付金はもちろんのこと、玩具や人形、 お菓子など、子供達が喜びそうな品々を送る人が後を絶たず、 歯科治療や理髪のボランティア、 音楽団の慰問演奏、慰安会への招待など、申し出る者が相次いだ。  
子供達が回復すると、いよいよ帰国事業が始まった。 1920年9月から翌7月にかけて、 横浜港から8回に分けてアメリカ経由でポーランドに向かった。 シベリアにはなおも救済を待つ孤児が2000名以上取り残されていた。 1922年3月、日本政府は、再度訪日したアンナの依頼に応じて 2度目の救済事業を決定する。この孤児たちも適切な治療や休養で 体力を回復し、ほどなく帰国の途についた。横浜港から出航する際も 神戸港から出航する際も孤児たちには道中の楽しみが少しでも増えるようにと バナナやお菓子が配られた。しかし孤児たちはみな、 親身になって世話をしてくれた日本の「お母さん」たちとの別れを惜しみ、 中には船に乗るのを嫌がって泣き出す子もいた。
元孤児のハリー・ノベッカは日本を去る時のことをこう回想している。 「誰もがこのまま日本にいることを望んでました。 太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・・」 なだめられてようやく船のデッキに並んだ孤児たちは、 日本で覚えた片言の「アリガトウ」を叫び続け、 その声はいつまでも鳴りやむことはなかった。 1995年に起きた阪神淡路大震災の直後、 ポーランド科学アカデミーの物理学者、スタニスワフ・フィリペック博士は 「日本・ポーランド親善委員会」を設立し、震災の年の7月と8月、 翌96年の7月と8月の2度にわたり、 合わせて60名の被災児たちをポーランドに招待している。 ユゼフ・ヤクプケヴィッチは心のこもった礼状を送っている。 「日本人がしてくれた恩をポーランド人はいつまでも忘れない国民であることを 日本の人達に知って頂きたい。ポーランド国民は日本に対して 最も深い尊敬、最も温かい友情と愛情を持っていることを お伝えしたいと思います」と語っています。                                      四條たか子氏著 「世界が愛した日本」より  
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