日の丸を元にしたパラオの国旗とバングラデシュの国旗

バングラデシュの国旗は、なぜ日の丸に相似しているのか?
パラオの国旗 青地・中心に黄色の球形
バングラデシュの国旗 緑地・中心に赤色の球形

 月刊誌「正論」2000年9月号P40オピニオン欄において、自由
主義史観研究会・東京大学教授の藤岡信勝氏は、「国立(くにたち)
二小(にしょう)問題と国旗指導のヒント」と題して、その中で、
パラオの国旗の由来を述べられました。

 なぜ、パラオの国旗は日の丸を元に作られたのかがテーマでした。
 そのオピニオンを私は拝読してパラオの国旗の由来は理解できた
のですが、同時にバングラディッシュの国旗の由来はわからないま
までした。

オピニオン曰く
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 パラオの国旗は、どうして日の丸とデザインが似ているのか。それ
には深いわけがある。オアラオはドイツの植民地だったが、第一次
大戦下、この地域の戦争でドイツに勝った日本は、戦後、国際連盟
からパラオを含むミクロネシア地域を委任統治することを求められ
た。日本はたくさんの移民をこの地に送り、産業、教育、文化の発展
に大きな功績を残した。第二次世界大戦後、この地域を占領したア
メリカは、日本文化の影響を徹底的に破壊した。南洋神社は取りつ
ぶされた。校庭の二宮金次郎の銅像は引きずり降ろされた。
 
 しかし、パラオ人は、心の中では勤勉の精神を教えてくれた日本
人を敬い、日本統治時代を懐かしんでいる。その証拠にパラオ人の
八割は、その姓名のどちらかをに、日本式の名前を付けているとい
われる。中略

 1994年、パラオはアメリカから独立した。独立にあたり国旗を制定
することになり、国民の間から一般公募した結果、日の丸をもじっ
た今のデザインに決まったというわけである。ただし、パラオの国旗
の満月は、日の丸の旗の太陽とは違って、中心からすこしズレてい
る。日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうだ。これ
はパラオの人たちの慎み深い態度をよく表している。

 パラオの国旗は、日の丸は侵略のシンボルではないこと、かつて
日本の統治下にあった国で、日本の日の丸を模した国旗がつくられ
るほど、戦前の日本と日本人はアジアの人たちから尊敬されていた
ことを教える実物教材である。
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【図越 私見】
 これを読んだ時私は、たいへん感慨深げになった。台湾のリップ
ン・チェンシン(日本精神)に凌駕するのではないか。
アメリカの植民地化の49年間、日本の文化的精神がパラオで温存さ
れていたことの証左である。
 それにしても、パラオ人の八割が、その姓名のどちらかをに、日
本式の名前を付けている、というのは驚愕である。
 何と、無知な日本人であることか。左翼や日教組の諸氏には、パ
ラオの事例で一喝できる。
 
 パラオは、まるで、戦後の台湾と同様だ。中国国民党の蒋介石に
やられた台湾。台湾統治時代の日本文化の懐かしさを覚えている60
歳以上の台湾人は、それを日本精神(リップン・チェンシン)とい
う。
 因みに、今年5月ごろから、小林よしのり氏は、雑誌SAPIOの連載
にて、台湾問題に切り込み中。
 そして、10月11日に、『新ゴーマニズム宣言スペシャル 台湾論』
が刊行される。
 この目論見は、10月下旬に李登輝氏が、長野県松本市にて開催さ
れる民間のシンポジウムに参加できるように政界に訴えるため。

 そこで、自由主義史観研究会にEメールを送りました。その内容は
、バングラディッシュの国旗の由来についてです。
図越
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 そこで、自由主義史観研究会にEメールを送りました。その内容は
、バングラディッシュの国旗の由来についてです。

以下、研究会の返答

遅くなりましたが、名越二荒之助(なごし ふたらのすけ)先生の
本の中にバングラデシュの国旗についての記述を見つけましたので
要旨を記載します。本の名は展転社発行「昭和の戦争記念館、第4
巻、大東亜戦争その後」です。
 
 緑の国土に昇りゆく太陽は独立の熱意を表す。緑はイスラムの色
とのことです。
国旗の制定事情について駐日大使館の広報担当官は「私の国では国
旗の意味を特定していない。解釈は自由である」とし、「日本への
憧れである」と答えたとのことです。
 更にバングラディッシュのうんだ3人の偉人として、「ノーベル
文学賞受賞者のタゴール、インド独立に命を賭けたチャンドラ・ボ
ース、東京裁判で正論を貫いたラダビノッチ・パル判事の名をあげ
、この3人はいずれも日本と深い関係にある」と答えたそうです。
 又建国の父ラーマン首相も、独立時日本の早川崇国会議員を団長
とする訪問団に同様のことを述べたとのことです。
研究会 杉本幹夫

以上が研究会からの返答でした。 
 
【図越 私見】
2000年8月に森善朗首相は、南アジアを歴訪され、その中でバング
ラディッシュを訪問しました。その時の歓迎式典では、森首相の後
背に、白地に赤色の日の丸と、緑地に赤色の球形のバングラディッ
シュの国旗が掲揚されていました。

 この二つの国旗を映像で目にした私は、何らかの関係が両国にあ
るに違いないと感じました。タゴールとチャンドラ・ボースとパル
が日本と深い関係にあるだけで日の丸を元にしたとしか考えようの
ない国旗ができるとは思えません。
 もっと、深い関係があったのではないでしょうか。

 それとも、中心に球体を描くというデザインが偶然にして日の丸
と同様になったのでしょうか。三色旗を元にした国旗は多数ありま
す。
しかし、中心に球体のみを描いている国旗(その他の装飾はなし:
韓国のような国旗は省く)は、世界の国旗集を見る限り、日本とパ
ラオとバングラディッシュのみです。

 その後、名越先生のホームページに上記について問い合わせをし
ました。
図越
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  国際派日本人養成講座の伊勢雅臣です。名越先生のホームページ
を代理で作りましたので、代わってお答えします。 
  
 「日本との深い関係」の中身を具体的に調べられることをお勧め
します。たとえば、本講座の以下の号をご覧下さい。

002 国際社会で真の友人を得るには
 「インド独立の為に日本人が共に血を流してくれたことを忘れま
せん」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog002.htm

039 国際法を犠牲にした東京裁判
 人類史上最初の核兵器の使用に対し、東京裁判が目をつぶってし
まった事が、現在の国際社会の無法状態の根源ではなかったか? 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog039.html

 名越先生のお話によれば、現在、インドの建国の英雄は、ガンジ
ーよりも、ボースであり、そのボースの組織した自由インド軍と日
本軍は一緒に血を流して戦ったのでした。それだけの縁のあるボー
スを生んだバングラデシュが、日の丸のデザインを使ってとしても
、不思議ではないと思います。
jog@y7.net http://come.to/bus 伊勢雅臣 一燈照隅万燈照国
http://come.to/jog Japan on the Globe 国際派日本人養成講座 
 
【図越 私見】

 チャンドラ・ボースは、インド生まれではなく、バングラデシュ
生まれであった。
しかし、これは、現在の世界地図を元にした見識である。
つまり、当時の世界地図に照らせば誤りである。
故に、インドは、イギリスから1947年独立して50年共和制と
なり、イギリス連邦に属している。
パキスタン(清浄な国の意)は、イスラム共和国で、インドを挟ん
だ東西二つの部分が1947年英領インドから分離してイギリス連
邦内の自治領となり、56年共和国となる。のち、言語・民族の異
なる東西の対立が激化し、東は71年バングラデシュとして分離独
立した。

 つまり、現在のバングラデシュ(ベンガル人の国の意)は、イギ
リス連邦に属しているが、旧東パキスタンに当たり、1971年パ
キスタンから独立。元をたどれば、1947年までバングラデシュ
はインドだった。だから、元インドのバングラデシュの国旗が日の
丸と相似していても、パラオの国旗同様、何の疑義も生じない。

そしてここで疑義が発生。「英連邦に属する」とは何ぞや。
これに関しては、「no301-1英連邦について」で私が発表している。
参照されたい。
図越
 
転載元
 http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1210091.htm
お借りしました

 

ポーランドが親日な理由

1917年、ロシア帝国が革命で崩壊すると、 各地で激しい内戦が繰り広げられた。その混乱に乗じたポーランド 1919年11月に念願の独立を勝ち取ったが、 両国はそのまま交戦状態に突入していく。 このときシベリアには、 祖国に帰りたくても帰れない10数万人ものポーランド人が取り残されていた。 せめて親を失った孤児だけでも、シベリアから脱出させなければならなかった。 救出委員会ではアメリカのポーランド系移民に保護を求める為、 欧米諸国に孤児たちの輸送と援助を要請したのである。 しかし混乱と緊張が続く国際情勢の中、各国の反応は冷淡であった。 万策がつき途方に暮れるアンナに委員会の一人が声をかけた。 「日本はどうだろう」それを聞いて別の一人も声を上げた。 「そういえば、ソ連赤軍に破れたチューマ司令官の義勇軍の為に船を出し、 新しく生まれ変わったポーランドへ帰れるようにしてくれたのも日本だった」 アンナは深くうなづいた。アンナは直ちに日本に向かい、 外務省にシベリア孤児の惨状を訴えた。1920年6月のことである。
外務省は直ちに日本赤十字社に孤児の救出を依頼。 それはアンナが外務省を訪れてからわずか17日後という 驚くべき即断であった。独立して間もないポーランドはまだ混乱の最中にあり、 日本との正式な外交関係さえ結ばれていない。そんな状況で、 手間も費用も人手もかかる救済事業がこんな短期間で実行に移されたことは、 当時のどんな外交事例と比べても極めて異例なことだった。  
そして7月下旬、56人の孤児を乗せた第一陣がウラジオストックから 敦賀経由で東京に着き、渋谷の慈全団体の宿舎に収容された。 これを手始めに、翌1921年7月までの1年間で5回にわたり、 1歳から16歳までの375人の孤児が同じように日本に運ばれたのである。 シベリア孤児達が日本にやってきた経緯を知った日本国民は、 物心両面で温かい関心を寄せた。寄付金はもちろんのこと、玩具や人形、 お菓子など、子供達が喜びそうな品々を送る人が後を絶たず、 歯科治療や理髪のボランティア、 音楽団の慰問演奏、慰安会への招待など、申し出る者が相次いだ。  
子供達が回復すると、いよいよ帰国事業が始まった。 1920年9月から翌7月にかけて、 横浜港から8回に分けてアメリカ経由でポーランドに向かった。 シベリアにはなおも救済を待つ孤児が2000名以上取り残されていた。 1922年3月、日本政府は、再度訪日したアンナの依頼に応じて 2度目の救済事業を決定する。この孤児たちも適切な治療や休養で 体力を回復し、ほどなく帰国の途についた。横浜港から出航する際も 神戸港から出航する際も孤児たちには道中の楽しみが少しでも増えるようにと バナナやお菓子が配られた。しかし孤児たちはみな、 親身になって世話をしてくれた日本の「お母さん」たちとの別れを惜しみ、 中には船に乗るのを嫌がって泣き出す子もいた。
元孤児のハリー・ノベッカは日本を去る時のことをこう回想している。 「誰もがこのまま日本にいることを望んでました。 太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・・」 なだめられてようやく船のデッキに並んだ孤児たちは、 日本で覚えた片言の「アリガトウ」を叫び続け、 その声はいつまでも鳴りやむことはなかった。 1995年に起きた阪神淡路大震災の直後、 ポーランド科学アカデミーの物理学者、スタニスワフ・フィリペック博士は 「日本・ポーランド親善委員会」を設立し、震災の年の7月と8月、 翌96年の7月と8月の2度にわたり、 合わせて60名の被災児たちをポーランドに招待している。 ユゼフ・ヤクプケヴィッチは心のこもった礼状を送っている。 「日本人がしてくれた恩をポーランド人はいつまでも忘れない国民であることを 日本の人達に知って頂きたい。ポーランド国民は日本に対して 最も深い尊敬、最も温かい友情と愛情を持っていることを お伝えしたいと思います」と語っています。                                      四條たか子氏著 「世界が愛した日本」より  
転載元